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開拓使の設置

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明治時代は、北海道本土をはじめ、北方四島と千島列島の開拓も、随分と進められた時代でした。

まず明治2年、(1869)に「開拓使」という役所を置き、それまでの「蝦夷地」を「北海道」に改名。明治4年(1874)に屯田兵制度を導入することを決定し、明治8年(1875)には、本州からやってきた労働者を道内各地や北方四島に配置しました。

そして、「樺太・千島交換条約」締結の翌年、明治9年(1876)、北海道開拓使長官黒田清隆が、はじめて北方四島と千島列島全島を視察し、開拓と警備の重要性を政府に進言しました。

その後、明治13年(1880)には、新しい行政組織のもと、色丹島、国後島、択捉島、の3島に村役場が置かれ、郵便局や小学校も設けられました。道路や港も整備され、次第に住み良い環境が整えられていったのです。島への移住者が増えていったのもこのころからでした。

一方、ウルップ島以北の千島列島に住んでいた島民は、交換条約発効後、国籍所属を決められ、それぞれの領地へ移住しました。

ウルップ島、シムシル島のアリュート人はロシア領へ引き揚げ、シュムシュ島のクリル人は色丹島へ移住。こうして、ウルップ島以北の島々には、定住者がいなくなりました。その後、海獣保護区の設定をしましたが、外国の密漁船は後を絶ちませんでした。

■北方四島と千島列島の開拓が始まった

明治政府が開拓使をおき、本格的な北海道開発がはじまってから、
北方四島と千島列島の開発も同時に始まっていきました。

開拓使

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