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日露修好条約の締結

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幕府による本格的な北方領土開拓が行われてきましたが、文政4年(1821)になると、ロシアとの緊張関係が比較的穏やかになってきたことから、幕府は蝦夷地の直轄統治をいったん止め、ふたたび松前藩に治めさせることにしました。

それ以降、これまでの日本とロシアの非公式な接触から、国と国との正式な接触の時代へとかわっていきます。そして日本とロシアの最初の正式な条約である日露通好条約が、安政元年(1855)に結ばれるのです。

そのきっかけは、安政元年から51年前にさかのぼり、露米会社の利益代表者レザノフが文化元年(1804)に長崎に来航したことからはじまります。

レザノフは、その12年前の寛政4年(1792)に、ロシア皇帝エカテリーナ2世の国書を携えて根室にやってきた交易を求めたラックスマンが、幕府から受けた回答に基づき、時の皇帝アレクサンドル1世が署名した国書を携えて来航し、幕府に通商を求めるよう、これを長崎奉行所の官吏に渡しました。

しかしながら、レザノフ一行は、上陸を許されないばかりか、半年あまりも返答を延ばされたあげくに通商を拒絶する返答を受け取ることになったのです。

翌年、江戸から目付け役の遠山金四郎景元が幕府の方針を伝えに長崎にやってきて、レザノフ一行と会見をしました。

そこで遠山は、なぜ12年前にも交易を断ったのに、再度国書を持ってきたのかなどと言い、後の会談でもかたくなに交易を拒否したのです。

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