元島民の声

[ ]

H21.11.11別海町の中学校にて

 

 皆さんこんにちは。ご紹介をいただきました臼田です。

本日は、北方領土についてお話する機会をいただきありがとうございます。

  

<島の暮し>

さて私は、昭和14年、歯舞群島のひとつ志発島という島で生まれました。

そして、昭和23年の夏、ちょうど9歳まで島に暮していました。

志発島は、歯舞群島で一番人口が多く、374世帯、2,249人が住んでいました。

歯舞村は、志発島、多楽島、水晶島、勇留島、秋勇留島の5島からなっていますが、志発島は村の行政の中心地でした。

群島は、どの島も山がなく平坦で、川らしい川もありません。

ですが、当時は小さな沼にもサケがのぼってくるほど、水産資源が豊かだったそうです。

また、海岸は幅の狭い砂浜で、曲がりくねり、水深が深いため、大きな船も留めておくことができる

天然の良港として知られていました。

島の産業としては、コンブの水揚げが四島の中で一番だったそうです。当時のことを思い出す元島民は口をそろえ、豊かな島だったといいます。

 私は、戦後3年間、島でロシア人と共に暮らしました。

言葉が通じないけれど、子供たちは無邪気なもので、お互い身振り手振りを交えながら、片言のロシア語で仲良く遊んだ記憶があります。

 

<ソ連軍の進駐>

ご存知と思いますが、ソ連軍は日ソ中立条約を一方的に破棄し、終戦直前の8月9日に参戦してきました。

そして、8月15日に日本が降伏すると、8月28日には択捉島留別村に上陸し、一週間ほどですべての島を占領してしまったのです。

 

そのときのことを皆さんちょっと想像してみてください。

何しろ外国人など見たこともない島民です。テレビもない時代に、ソ連軍に占領されるという噂が広まったんです。島民はパニックに陥ったでしょうね。

終戦前から、噂を聞いて、根室方面に脱出する人も多かったといいます。

実際に占領されてからは、体が大きく、色白で、ロシア語を話すロシア人は、小柄で素朴な島民にとって、非常に恐ろしかったそうです。

その当時の状況は島によって様々でしたが、島民は今後どうするのか選択を迫られました。

 

<脱 出>

不安にかられた島民は、真夜中にソ連兵に見つからないよう海岸に出て、焼玉エンジンを積んだ小さな漁船で根室に脱出したそうです。

焼玉エンジンは、金属の玉を真っ赤になるまで熱して、燃料を爆発させるエンジンのことです。

しかし、船外に明りがもれると見つかってしまうので、覆いをかけて焼くのです。

息苦しさに窒息しそうになるのを必死にこらえ、逃げるように沖へ出て行くと、後ろからソ連兵が銃を発砲する音が聞こえていたそうです。

小さな船ですから、ほんのわずかな身の回り品しか持てません。まして、ろくに準備する時間もなく脱出した人が多かったようです。

 

その後も歯舞、色丹、国後島から根室方面へ脱出する人が増えましたが、ソ連兵に見つかって戻された人や荒波で遭難し、命を落とした人も相当いたそうです。

脱出した人は、当時の島民の約半数といわれています。

 

<ロシア人と暮らす>

一方、漁船を調達できない人、老人や病弱な家族がいる家庭など様々な理由で島に残った人がいました。

択捉島は、根室から約145㌔メートルも離れているため、ほとんどの人がやむなく残ったそうです。

残った人は、ソ連軍の命令に従わなければならず、しかも土地も畑も私有財産はすべて奪われました。

特に進駐直後は、強制労働もさせられました。

 

ソ連軍は、四島をあっという間に占領した後、日本軍の武装解除を行いました。

一般住民に対し、身分証明書を交付し、証明書なしでは通行もできなくなりました。

証明書はもちろんロシア語で書かれています。

そして、9月20日から千島全島をロシア共和国、ハバロフスク地方に編入すると決めたのです。

自分の故郷に突然土足で踏み込まれ、「今日からここはソ連です。」といわれたのですから、元島民の恐怖や不安は言葉にならない位だったそうです。

 

<強制送還>

その後昭和21年11月に、引揚に関する米ソ暫定協定が成立しました。

実は、3月に連合国最高司令部から、北方四島居住者は日本本土に移送される指令が出ていましたが、

アメリカとソ連の間で改めて折衝が行なわれたのです。

そして、昭和22年4月から23年12月にかけて強制送還が行なわれました。

ソ連の輸送船でいったん樺太、今のサハリンの収容所に、北方領土以外の地域にいた人たちと一緒に収容されたあと、日本の引き揚げ船に乗せられ、函館に強制送還されました。

 

 

その強制送還のようすを根室市に住む元島民の鈴木さんが、以前話してくれました。

昭和23年10月、強制送還の命令が出されました。

身の回りの品だけを持ち、岬を二つ越えた集合場所までソ連兵にマンドリン銃を突きつけられながら歩きました。

やがて荷物と一緒にウィンチで吊り上げられ、船底に入れられました。

甲板に乗船させられた人たちは、寒さの中でも雨さらしで、トイレから洩れ出た汚物が雨水によって移動するという、大変不衛生な環境の中、何日もかけて樺太に上陸しました。

ソ連の荷物検査では、人によっては指輪や時計が没収されることもありました。

紙に書いたものを持っていくことは一切許されませんでした。見つかるとスパイ容疑で取調べを受けるといわれたものです。

真岡の収容所での生活は、悲惨でした。ドアもないトイレで、目がくらむ程深い便槽の中に、何人もの子供が落ち、上に引き揚げても助からない人が多かったと聞かされ、一人では決して行かないようにと親に言われました。

食べ物は、コ―リャンのお粥と鰊の塩漬けという内容で子供たちは栄養失調に陥り、歩くこともできなくなくなっていました。

 

その後、日本の引揚船で函館に上陸することになりますが、亡くなる乳飲み子や子供が何人もおり、遺体を背負ったまま下船した母親もいたといわれております。

 

戦後、外地から戻った人を引揚者といいますが、私たち元島民は厳密にいうと引揚者ではありません。

なにしろ、北方四島は紛れもない日本の国ですし、住所も本籍もあったのですから、むしろ「強制送還者」というのが正しいのです。

 

さて、皆さんは、別海町から一番近い国後島まで何キロくらいあるか知っていますか?

 そう野付半島からは、直線距離でわずか16キロメートルしかありません。私の住む尾岱沼は、北海道でも国後島に一番近いところです。

 

私たち元島民やその二世三世は、年に4回ほど、町のイベントに出かけてゆきます。

「北方領土を返して」と署名活動をもう何十年も行なっています。

中には「何度署名しても返ってこないっしょ。」とか「元島民の問題だよね。」と言う人もいます。

64年間も返せ返せと言いながら実現しないんですから、疲れてあきらめてしまうのも無理はありません。私たちも、休みの日はゆっくり休みたいです。でも声をあげることを止めたら、この島は永遠に還らない。その一心で運動を続けています。

 

この頃は、私たちの子供たちが、返還運動の後継者として「洋上学習」や「現地青年の集い」さまざまな活動を行なっています。

ですが、あまりにも長い年月がかかり過ぎ、大事な問題であることを知らない日本人も多いのです。

 

<皆さんに願うこと>

毎年2月7日に根室市において「北方領土の日 根室管内住民大会」が行われています。

この日は、1855年に日ロが平和的に国境を択捉島とウルップ島の間と定めた「日露通行条約」が調印された日ですね。

 その際の中学生弁論大会では、「国境線をひかなくても、お互い仲良くやればいい」という意見も聞かれます。でも本当にそうでしょうか?

つい3年前の平成18年8月、根室沖で、ロシア国境警備隊に銃撃され、日本人の若者が亡くなったことを皆さん覚えているでしょうか?

 その若者は、根室からほんの数キロ先の沖に漁に出ましたが、中間ラインを超えてロシアの領海に侵入したという理由で、有無をいわさず銃で撃たれて死にました。

中間ラインは、日本側がロシアに領海侵犯といわれないように引いたもので、別に国境ではありません。ですが、乗組員は拿捕され、船長はロシアの法律でさばかれ、船まで没収されてしまいました。

領土問題には、これほど厳しい現実があります。

 

私たちも、もう16年以上もロシア人島民と交流を積み重ねてきましたが、銃撃事件は起きてしまったのです。

ロシア政府に対する強い憤りと不信感が募り、早く返してほしいという気持ちがいっそう強くなりました。

 

日本は、島国で、日頃領土というものを意識しない人が多いと思います。

一方ロシアは、広大な面積をもっていますが、気候は厳しく過酷な国です。

周りをたくさんの国に囲まれているため、経済面で摩擦もたえません。

そんなロシア人と私たち日本人は、歴史も考え方も文化も全く違います。

 

 

今では北方領土学習は、当たり前のように行なわれていますが、以前は、学校で教えることすら、ロシア政府は抗議をしてきたんですよ。

 昨年4月に「北方地域旧漁業権者等に対する特別措置法」が改正されたときもそうでした。

この法律には「北方領土は我が国固有の領土」と明記されたのですが、これを知るとロシア政府も国民もすぐに日本を非難してきました。

 

 これでまた、解決が遠のいたという人もいます。しかし、私はそうは思いません。

相手に抗議される度に返還の声が小さくなったら、日本の世論はこんなものだと思われてしまいます。

日本が北方領土問題に無関心になれば、こんなに近い島と豊かな海が、永遠に遠い島になってしまいます。

 

皆さんにはどうか、しっかり歴史を勉強し、北方領土問題をぜひ若い世代で考えてほしいと思います。

今日は長い時間きいていただきありがとうございました。

 

 

後継者の集い

[ ]

2月21日、北海道全域で低気圧が発達し、根室管内も朝から猛烈な暴風雪に見舞われました。

この日は、羅臼町で根室管内の後継者(元島民二世・三世)による「現地青年の集い」の開催日。

50名の参加予定が20名の出席者となったため、急遽後継者活動の状況と昨今の動きについて

膝を交え話しあいました。

 後継者といっても、40~50代の二世三世は働きざかり、しかも北海道の経済は昨年来の金融危機のずっと以前から地域経済にかげりが出始め、非常に厳しい。しかも、先が見えない中で運動へのやる気を持続させるのも容易ではありません。(実際何度も落胆していると少々のことでは驚かなくなる。)

 日露政府に対する期待と落胆、地域の現状、さまざまな感情に揺れながらも、国の根幹をなす問題のけん引役としてのプライドをもち、そして一方元島民という当事者の後継者という立場でぶれることなく返還を要求してゆくことで意見交換を終えました。

 これを読んでくれている皆さん、各地に必ず県民会議や女性団体、JCなど返還運動を行なっている団体は必ずあります。是非返還要求の声を広めてください。

 私は外交交渉には全くの素人ですが、私たちの発する言葉がどんなに重要かは今までの経験で思い知らされてきました。苦しくても一言一言を大事に返還要求の声をあげていきたいと考えています。

(A)

 

日露首脳会談

[ ]

全国各紙によると

 2月18日、麻生総理大臣はサハリン2プラント稼動式典*出席のためサハリン州を訪問、

 メドベージェフ大統領と会談。 ( *液化天然ガス(LNG)工場がロシアで初の稼動開始)

 麻生総理はアジア太平洋地域のエネルギー供給源が多角化し、繁栄の基盤が強固になったと表明しました。

 北方領土問題については、次のとおり合意したと報じられました。

(1)この問題を我々の世代で解決すること

(2)これまでに達成された諸合意、諸文書に基づき作業を行なう

(3)新たな、独創的で、型にはまらないアプローチの下で作業を行なう(メ大統領の発言をうけ)

(4)帰属の問題の最終的な解決につながるよう作業を加速すべく追加的な指示を出す

これに関連し、極東・東シベリアにおける協力の中で、

 サハリンに隣接するオホーツク海や、北方四島を含む日露の隣接地域での生態系保全協力について昨年7月に実質合意したプログラムが近く署名される見通しとなったことを歓迎し、近く双方の専門家によるシンポジウムを開催することで調整していくことになったと伝えられました。

また出入国カード問題では、

 四島交流は信頼醸成の観点から重要であり、友好的かつ建設的に解決すべく事務方に支給作業 をさせることで一致した。

 

 

 

1月28日、日本政府からの人道支援物資を積んだ船が国後島へ入域(自国領土に行くのに入域もないのだが)の際、ロシア側から出入国カードの提出を求められ、中止した一件。
 
ニュースを耳にし、私は腹がたち次第に体調が悪くなった。
交渉や会談が近くなると必ずこうした問題が発生する。愚弄するのもいい加減にしてほしい。
 
この事業は、'03年に人道的観点および領土問題解決への環境整備という目的で国の方針で始まった事業である。千島連盟がこれを引き受けるにあたっては、なぜ我々が人道支援を?という声も多く、返還交渉が停滞する中での苦渋の決断であった。
 
2月3日、千島連盟小泉理事長らは、北海道知事に再発防止を政府に働きかけるよう要請し、高橋知事はさっそく国に直接それを伝えたと報じられた。
 
今日のニュースでは、ロシア人島民側から「取りに行くから物資を引き渡してほしい」と要請があったという。
今回の問題はロシア移民局とロシア政府の問題であり、事務レベルで解決すべきとの声も多い。
しかし、ロシア政府が多額の資金をつぎ込みインフラ整備を進めているといわれる中、人道支援は本当に返還に寄与するのだろうか?
 
私は、領土問題は国の根幹の問題としてプライドをもって取り組んでいるつもりだ。
しかし、64年も占領されたまま、この隣接地域が受けている打撃は計り知れず、
ロシア人への支援の前に自分たちを支援してほしいという地元住民の切実な声の前に
何をすべきかわからなくなることも多い。
 
 
この2月中旬にも日露首脳会談が予定されている。着実に交渉を進展させてほしい。
秋庭